いろいろエッセイ
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島海域で起こっている問題

 尖閣諸島海域で、日本の巡視船に故意に船体を接触させたとして、中国籍漁船の船長を拘留し、中国政府の様々な圧力の中で、その船長を釈放したという事件があった。政府が指揮権を発動したのではないかというような弱腰を非難する議論が国会でおこなわれたことは記憶にあたらしい。すこし、日本が抱える領土問題について考えてみたい。
 尖閣諸島(中国側の呼び名は釣魚島)は日本が実効支配している。近年中国や台湾が領有権を主張しはじめたのは、この海域に膨大な海底資源が眠っていることと、中国海軍の太平洋海域への自由な出入りを確保するという目的だという説がある。
 
韓国とは竹島(独島)の領有権問題があるが、ここは今韓国側に実効支配されているようである。
 ロシヤへの北方諸島返還問題は永年交渉つづけているが一向に前進の気配はない。その根底には、ロシヤ軍事力の、太平洋地域への自由な出入できる海峡を確保したいという願望が強いという説がある。ロシヤ側の主張はしばしば変動しているけれど、いまなお問題解決への兆しは見ることができない。歴史的経過でみるなら、不法な軍事的占拠であるから、ロシヤ側もその正当性を主張できない弱みがある。このような領土問題は、当事者双方が同意しないかぎり国連の司法機関は関与しないということであるらしい。
 さて中国の圧力に対して軍事力で対抗するということは果たして可能であろうか。今の民主党内閣のなかでも沖縄方面への自衛隊増強とか無人偵察機の導入とかの説がある。在日米軍は、日本の主張を正当とはしても、軍事的介入は絶対におこなわないだろう。日米安保条約は、本来的にアメリカの国際戦略に基づくものであって、日本を守ることを目的にしたものではないからである。アメリカが日本のために対中関係、来韓関係を悪化させることはありえない。
 私は、こういう問題を取り上げて、民族的敵がい心が国民のなかに蔓延することを恐れる。また自前の軍事力強化で武力的対抗も辞さないという主張が強まることを恐れる。威嚇の応酬は日本という国自体を滅ぼすことになるだろう。
 国際紛争に武力でかかわることは日本国憲法の禁ずるところである。そしてまた、領有権を全面にだしての交渉は問題解決にもならないだろう。
 わたしとしては、尖閣諸島にしろ竹島にしろ、排他的領有権を主張することは、たいして意味をもつものではないと考えている。それよりも水産資源や海底資源の共有、あるいは共同開発に門戸を開くような交渉こそ、両国関係を良好に維持できる唯一の方途であると思っている。みなさんはどう思っていられるのだろうか。私の考えを敗北主義だという人がいるなら、その人のこの種の問題解決への具体的提案を聞きたいと思う。



杉本知政詩集『迷い蝶』
に寄せて

                                   

 杉本知政という人のことを、私の父が誠実な詩友として対処していたことを知ってから、四十年以上になるだろうか。お互いの詩集は交換しているが、詩についてもお互いの生活についても話しあう機会はなかった。彼が福中都生子さんの「陽」に属していたことも、福中没後にくにさだきみさんの「径」に加わって書いていることもそのそれぞれの会誌を通じて知ってはいたが、そのことについて話し合うということもなかった。おそらくそれには私の無精が影響しているのでだろう。近年会う機会は増えているのだが、お互いの体調不調もあって、意を満たすにはいたっていない。

 彼の新詩集への評を頼まれて、なんとなく引きうけてしまったが、ほんとうに私が書くべきなのは杉本知政論なのであって、しかし私には今それだけの準備も能力もないということである。

まず最初は、語りかけてくる風土について。

たとえば「毎日吉野川沿いを一時間ほど歩いている/備前・美両国を巡ることになる」という詩の書き出しも、たとえば「吉井川の堤に土筆を摘み城山の麓で蕗の塔をとる」という詩行なども、、わたしにとっては瞬時に理解できるものである。私にとっても説明の要らないこれらの固有名詞が孕んでいる土地感覚は、その土地に生活の根をはやしている杉本さんの、生活している風土との一体感を示しているのであろう。 「古里の柿の実」という作品の書き出しを引く。

随分前 幼馴染みに請われ

 生家と屋敷を譲った

 あとに墓地と田畑山が残っている

 もう小作を頼める人もなく

 田畑は年を追うごと山に戻っていた

里のあちらこちらの田畑も同じであった

人も家屋も次第に姿を消していく里を杉本さんは見詰める。今は農に生きるものではないけれどもその里の農の衰亡を見詰める。往時の子どもたちの群れがあらわれ去っていく幻想は、自らもそのひとりであった者としての里の歴史への回帰であろう。私も今の農村の荒廃を見詰めて詩に書いているが、それはやはり出て行ったもの、外にいて視ているものの詩であって、杉本さんの生きざまに直結した詩には及ばない。「見続けて何時も」という詩に出てくる農民は、なぜか、この地で農を営んでいる私の兄ではないかというような気がしてならぬ。どうでもよいが、ありうることだ。

第二章の福中都生子への悼み歌にはじまる一連の詩群は、杉本さんがこれまで詩に託してきた志を明らかにしている。広島で被爆し、被爆者手帳を受け、早くして亡くなった義兄のこと、岡山空襲を語る「火の雨降る夜の記憶」のことなどは、日本の民衆がすべて体験し、その体験のなかから本来希求してきたはずの、祈りをあらためて浮き彫りするものであろう。私には、連作ともいえる「土橋の記憶」の叙事的展開が、わが少年期の体験をよみがえらせるもものがあって興味深かったし、寓話仕立ての「昼の夢」は、杉本さんより二歳年長の私にとって、言い知れぬ悲しみや悔恨をさそいだすものであった。

さて、第三章の「旅へ」は、かつて詩人が生死の狭間をただようような大病を乗り越えたことを語っている。また「二つの月」はユーモラスにではあるが、「生まれつきの弱視」について語っているし、「時には空を飛んで」では近年詩人を悩ませた関節の痛みについて語っている。いわばそれらのハンデイのうえに紡がれてきた生活者としての営みが結実した詩集『迷い蝶』を、私の胸に抱きしめたい思いがする。しかしおたがい、まだ見届けねばならぬ明日があるのだ。詩集末尾に置かれた詩のように。

あしたから

夢の実を探す旅が始まる

(『コールサック』67号掲載)




パレスチナからやってきた詩人

1974年関西にやってきたマハムード・ダルウィッシュ


           

 土曜美術社出版販売から出された「現代世界アジア詩集」には、デイヴイッド・クリーガーという詩人の「偉大な詩人が死んだことさえ知る者は少ない」と題する詩を収録している。それはマフムード・ダルウイーシュに捧げられた詩だ。


 詩人は愛と素朴な言葉で語った

 その地のために悲しんだ

 とても乱暴に奪われた土地

 詩人と詩人の民から

 

 で始まる詩が語っているように、ダルウイーシュはパレスチナの出身で、一九四一年に現在イスラエル領の西ガラリヤで生まれた。父親はイスラム系の地主だったという。一九七三年にPLOに参加。生地への入国を禁止され、国外から闘い続けた。二〇〇八年にアメリカで死んだ。六七歳。

 

 この「現代世界アジア詩集」より一カ月ほど前に刊行された書肆青樹社の現代詩文庫の一冊、石原武の「詩と道化」の中の「詩と体制」と題する章がやはりこの詩人の死について語っている。 

「ダーウイシはパレスチナのみならず、アラブ世界を代表する詩人であった。……一九四八年、イスラエルの建国によって土地を追われ、転々と流浪する。やがてアラファト率いるパレスチナ解放戦線に加わり、中心的な役割を果たす。一九八八年にイスラム過激派ハマスの台頭に絶望、以来政治を離れる。 後年、〈抵抗という体制〉に阿った言葉の粉飾を恥じた、と石原氏「は書いている。

 さて、一九八一年に出した私の第三詩集「霧がはれる」に「パレスチナからやってきた」と題する詩がある。その終章部分だけを抽出する。
 

   陽に灼かれる国の六月から 熱い咽喉と燃える歌をたずさえてやってきた男 日本の古都の異教の寺院のなかで雨に濡れながら 鹿とた   わむれているマハムード・ダルウイーシュ


 一九七四年、アラブの作家や詩人たちを招待して関西で連帯集会を開催したとき、パレスチナ代表として彼も来日したのである。詳細な報告書が作られたはずだが、今手元には見当たらない。

  私のメモ風日録には

六月二九日 アラブ作家来阪、中之島公会堂で連帯集会。

     六月三〇日 アラブ作家シンポ。解放センター。

     七月一日 AL作家奈良へ。部落、東大寺、法華堂。

   七月二日 京都、修学院、部落、京都ホテル。

     七月一二日 AAL連帯総括会議。

とある。私の記憶の中には、他のアラブ系の文学者やジャーナリストの名は残っていない。日本側の実行委の主力部隊は部落解放同盟であった

 当時、アラブ諸国やパレスチナ解放闘争は、日本の中ではまだ啓蒙段階であったと思われる。

ダルウイーシュはその政治的な詩で有名になったが、後年「彼は生涯これらの詩を恥じた」と石原氏は言う。「抵抗という体制に阿った言葉の粉飾」という石原氏の言に、今なお社会的政治的詩人であろうとする私なぞは忸怩たるものがあるけれども、そう言い切ってはならぬという反証は、みずからの詩で示すほかはない。

 奈良の雨の一日、傘をさして鹿に煎餅を与えていたまだ三〇歳前半のマハムード・ダルウイーシュ、その白哲の智的な表情と微笑は今も心に焼き付いている。  (2010年5月

小阪多喜子というひと

。かねてから心にひっかかっていたことがあってそのことを書いてみたい。まず手許にある一冊の書籍を紹介する。
『わたしの神戸 わたしの青春』著者小阪多喜子「わたしの逢った作家たち」という副題をもつこの書籍は昭和六十一年に東京の三信図書という出版社から出ている。帯には帯には佐多稲子が次のように書いている。「尾崎一雄と片岡鉄兵が、文学を読む人にとって古くなったとはおもわない。が、この人たちの元気だった時を知っている一位は少なくなった。それだけにこの書の内容は、作家の動向を伝えて文壇のひとこまともなるだろう。小阪多喜子さんのたどった道は、当時の若い人の先端を行くものであって、その愛と夢は、時代の風にさらされて傷む。小坂さんの文学への情熱が、その傷に堪えてこの書を書かせている。文学への情熱は人生に渉り合うからそのことで読む感興は深い。」著者を知っている人の弁であろぅ。しかし、私はこの著者を知らなかった。その名すら関心のそとにあった。だから自らもとめるはずもなく、わたしの友人たちのなかでこういう書籍に関心を持っている人がいたとも信じらない。誰から私の手元に回ってきたか、まるきり記憶がないのだ。それも読みふるしものでなく新刊だった。もう二十年以上も前のことだから、思い違いもあるかもしれない。

 さて、この本の中身に分け入ろうと思う。「自伝的実名小説などというジャンルがあるのか、どうか私は知らないが、私が生きてきた道すがら出逢った、これらの人を実際にこの目で見、肌で感じたまま、ごく自然に自伝を交えてかいたもので、このなかにはいささかな虚構も含まれていない。」と書いている。 取り上げられている人々の名前だけを挙げておこう。尾崎一雄、片岡鉄兵、小林多喜二、神近市子、鍋山歌子、長谷川時雨、丸岡秀子、若杉鳥子、細野孝二郎、大谷藤子、壺井栄、中谷孝雄、丹羽文雄、これらの名前は昭和初期に活躍した、壊滅したプロレタリア文学運動の残影のなかで苦闘していた人だけにとどまらない多彩な顔ぶれを示している。そして、そのそれぞれの人名の記憶に結びついた思い出のなかに、これらの氏名にとどまらないさらに多くの人々の名が記述されている・。まさに昭和初期文壇史を補強するものとしての面白さを含んでいる。だが私はそれを書こうとは思わない。

 私は著者小阪多喜子の人間的足跡を追おうとおもう。この書物は人物論として成り立っているため、著者の経歴を年代順に再構成してみたい、というのが私の目論見である。
  小阪多喜子は明治四十二年に岡山県の北端である勝田郡豊並村大字小阪という地名のところで生まれたという。彼女がまだ乳児のころ、母に捨てられ、やがて父も出て行った津山の町で、炭屋を営んでいた祖母に育てられた。「津山から私の生まれた村に行くには日本原という、陸軍の演習場を通ってゆかねばならなかった。……昔は見渡す限りの大草原で、家など一軒も見当たらなかった。その大草原のなかに細い、草に覆われた一本の白い道が何処までも続いていた。私と祖母はそこを通って小阪へ行った」というのが多喜子の記憶である。 いろいろ手持ちの地図など調べて勘案してみたが、その土地は、東津山から北東に伸びる国道五三号線沿いの奈義町の小阪というところであろう。鳥取県境まではなお数キロ北上しなければならぬ。 昔の言い方ですればほぼ五里の行程である。幼児連れの女の足で歩けたものか。しかし、私も十五歳のころ、津山から吉井川沿いに南へ、やはり五里ほどの道のりを何回か往復したことがあるから、乗り物のない当時では当たり前のことであったといえる。

 多喜子は十歳のころ、「父が勤務する製粉工場のある岡山駅裏の、水田の見渡せる新興地に移り住んだ。ここで岡山市立商業学校に通った。
 そして、おそらく18歳のとき、「父の転勤にともなわれて神戸に移ってきた。「初めて父と一ツ屋根の下に住むようになった」。「私と祖母と父の二度目の妻のおしかさんと、この四人は神戸の兵庫区にある社宅に住むことになった」。  多喜子はこの町が気に入っていた。倉庫と工場がならび、造船所のクレーンが中天にそびえ、それらが影を落としている運河とその運河にかかっているはね橋、運河を渡って足を踏み入れる和田岬という労働する人に直結する街も新鮮だった。曲がりくねった道をあるいていくと、劇場や映画館のある新開地に出てくるのだった。そこで当時全盛だったサイレント映画を見、アトラクションとしての岡田嘉子の踊りを見たりした。 格子戸なる窓が通りに面している自室で、トルストイやドストイェフスキー、ツルゲーネフなどをむさぼり読んだ。 河上肇の『社会問題研究』なども積み重ねられるようになった。 
 まもなく、元町の坂をのぼったところにあったパルモア女子英学院にかようようになった。「英語を習うということに興味は全くなかったが、わたしが学校へ通うことは、私の生活の無為を消すためで、毎朝教室で歌う賛美歌が楽しかった。そのためにだけ学校に通った。私は水色の袴をはき、長い袂を翻して、昼食をとりに元町に降りてきた」。

 そういう穏やかな日はながく続かなかった。。
「そのころ燎原の火のように燃えさかってきた社会主義の思想に私もまたとらえられ、それがそれまで私のうちに絶えずくすぶり続けていた父に対する憎悪に油をそそぐ結果になり、……そのあげく父の援助は一切受けないと言い放ち、祖母を連れて兵庫の家を出て摩耶山麓の西灘に別居してしまった」。
「ケーブルカーの発着所に行くバス通りの繁華街でそのころ米屋をしていた」親戚があり、「私と祖母はそのバス通りの下の坂の途中にある、同じ造りの家が三軒並んでいる真中の家を借りた」。
 このあたり、戦災はまぬかれているが、水害があり地震があり、道路計画で区画の様子も変わっているので、上記の所在がどこかは今のところ特定できないが、我が家の所在である灘区上野通四丁目の隣、五丁目の内と判断してもよかろう。 このころの多喜子の生活のなかで、灘区のこのあたり、上野、国玉、五毛、高尾などの現在地名でよばれるあたりには関係者が多い。いわゆる文学、芸術関係があつまる、文化ゾーンとして機能していたといえるかもしれない。 
 多喜子は父から自立すると同時に、三宮の旧居留地にあった勝田汽船株式会社に邦文タイピストとして就職した。岡山の商業学校で学んだことが役に立った。昭和二年のそのころでは、月給四十円でかなりいい。
 勝田汽船の社長勝田銀次郎という人は、第一次世界大戦のとき、時流に乗って巨万の財を築いた舟成金で、また一代でその富を失った。昭和八年から十六年、対米戦争の開始の時期まで神戸市長を務めた。 摩耶山麓に、広大な摩耶御殿といわれる大邸宅をつくり、正月には全社員が集まって祝い膳を囲んだという。多喜子もその家に入ったことがあるようである。人手に渡った豪壮なその邸宅とは、現在、神戸高校の敷地東側に、観音寺川?とよばれる小さな滝と渓流があり、その東側に現存する邸宅だと私には思える。神戸製鋼かどこかの寮として管理されているようだ
さて、多喜子の年代順に従って記述するとすれば、次は片岡鉄兵のこととなる。多喜子がまだ勝田汽船に勤めていたころ、片岡にフアンレターを送った所、折り返し待ち合わせw場所を指定してきたという。
 その場所は三宮駅前のボンボンという喫茶店で、そのときは彼女は職場の同僚を連れて行った。二回目のデートは「元町の、やや三宮よりの山の手に入った小路にあるフランス料理店と元町周辺の散策、第三回目は、鉄兵が仕事場に使っていた大坂の梅田ホテルに逢いにいった。
 このホテルで彼女は人生最初の接吻を体験する。鉄兵に男の魅力をすこしも感じていなかったこと、ホテルに男を訪ねていくことの危険への無知などを彼女は語っている。 鉄兵にすれば、多喜子への接近は、当時朝日新聞に連載していた小説のための取材という意味での若い女性との接触であったのかもしれない。

 片岡鉄兵について多喜子が関心を持ち続けていたのは、彼女の生母のの生まれた村の隣村の出身であることにもよる。鉄兵は岡山県苫田郡芳野村寺元の豪農の長男として生まれた。じかし彼の父がその財産一切を一代で散じてしまったため、鉄兵が小学校二年のとき津山市内に移った。じつは私はその津山の片岡邸を知っている。津山城址の一郭、石段を登っていった一画に、左が市立図書館、右側に格子戸の門構えの民家があった。昭和十三,四年ころのわたしに、それが片岡鉄兵の家だと教えてくれたのは誰だったか、八、九歳の子どもに片岡鉄兵の名を覚えさせたのは誰だったか、それともすべて幻話だったか、とりあえず書き留めておく。
 片岡鉄兵と知り合ったころ、多喜子には恋人ができていた。関西学院の学生で上月潔という人だ。おそらく昭和三年の一月、多喜子は摩耶ケーブル駅近くの犠牲者救援会を訪れた。戦後、社会党の代議士となった三宅正一の妻信子が数人の学生と共同生活をしていた。暗い桜並木の坂道を、学生に送られて帰った。それが恋人との出逢いの始まりであり、また具体的な運動へ足を入れるきっかけともなった。研究会のささえ、レポートの代筆という仕事や、灘から須磨塩屋まで、ひたすら歩き回るという恋であった。気の利いた喫茶店などもない時代、多喜子にいわせると「デートとは歩くことだった」時代の恋である。この上月という学生は大坂東雲町の出身で、芸大生の兄もいたというが、多喜子にとってはその後の消息は一切不明だということである。
 彼女はまた、そのケーブル駅近くの、劇作家の久坂栄二郎夫妻の仮住まいも訪ねたことがあるようだ。
 二月の寒い日、多喜子は会社の帰り道、「旧居留地の、ビルの谷間の薄暗い石畳の上で、ある男と街頭連絡中、検挙された」。どうやら彼女の最初の任務であったらしく、どこから漏れたのか腑に落ちないことであった。 そして四月十六日の早朝寝込みを襲われ検挙された。この四・一六事件に巻き込まれ、葺合署から三宮書へ、一週間拘留された。 釈放あれて「西灘の祖母の待っている家に帰ったおの数日後」父と和解して一緒に暮らすようにということだけ繰り返し書かれている遺書を残して祖母が自殺した。
 その後、多喜子は父の家に帰り、またパルモア女子英学院に通うことになる。そして、三学期の終わり、終業式の日に「錦紗の着物の重ね着、絵羽の羽織、その上にお気に入りの市松模様の絞り金紗の半コートを羽織り、祖母の形見の翡翠の帯止め、小型の金時計、金目になるものは、手提鞄につめこみ、」学校に出て、そのまま東京へ出奔した。昭和5年のことである。

 さて、この文のもくろみはほぼ終わったようだ。紙数の関係もある。小阪多喜子の人生のまだトバ口である。だが、それ以後は彼女の人生というよりも、歴史の荒波にもまれつづけた、プロレタリア文学の興亡を眺めればいい。その点景をいくつか拾ってみる。
 家出した多喜子は最初片岡鉄兵の家に行き、翌日、「若草」誌投稿欄の縁で神近市子の家にころhがりこんだ。 間もなく神近市子の紹介で「戦旗社」に就職し、そこの編集部の上野壮夫と結婚する。徳永直『太陽のない街』や小林多喜二『蟹工船』などを出版した戦旗社の全盛期であった。
 やがて弾圧、検挙、組織の解散、転向の嵐という時代を上野夫婦がどのように生きてきたか、体系的な叙述はない。武田麟太郎の『人民文庫』にもつながっていた。その後、上野は大宅壮一の世話で花王石鹸の宣伝部にはいり、やがてその分野で成功を収め、広告界の草分け的存在として大成したようである。多喜子は上野壮夫との間に一男二女をなした。苦難の時代に生んだ長男は、親の家に預けぱなしの末、少年航空兵を志願し、帰還後病死したということある。

 土方鐵と現代俳句


〈はじめに〉
 私に与えられたテーマは「土方鐵の俳句」なのだが、俳句というものについては、大方の日本人と同じように、若い頃すこし齧りかけたことがあるという程度で、正直に言ってまるで素人だ。
 そして土方鐵さんという人の創った俳句作品についても、句集『漂流』(一九九六年三月刊)以外に何も知らないと言っていい。「解放新聞」の投句欄の選評や、文学誌「革」に載せた作品は愛読してきたが、なによりもまず句集『漂流』以後九年間の作句については知る機会をもっていない。それだけでこういうテーマについて書こうとするのは無茶で無責任だと非難されても仕方あるまい。
 しかしにもかかわらず、とりあえずの責めを果たそうと思う。四十数年にわたり、土方鐵さんの文学に同伴しそれを愛してきた人間として、私自身も現代詩という短詩型の文学に身も心も置いてきた人間として、かすかにでも見えてくるものを探ってみたいと思う。
〈現代俳句としての位置ずけ)
 わたしの言う詩とは、簡単にいうと非定型口語自由律の詩ということになろうか。日本の詩の歴史としてはたかだか百年を数えるだけだ。それに比べ俳句は、連歌・連句などの伝統のなかから生み出され洗練されてきた長い歴史を負い、伝統のくびきを背負っている。
 当然のことにさまざまな伝統俳句や、伝統から解き放たれた俳句の革新を実践しようとする流派が生まれてきている。そして、わたしは土方鐵さんの俳句をいわゆる伝統俳句の流れではなく、「現代俳句」の中に位置付けして考えている。現代俳句といわれるものにも、季語にこだわらないという主張から、五七五の文節にこだわりない自由律口語俳句を提唱し実践している流れなどさまざまであるらしい。そして彼自身が句集『漂流』あとがきのなかでも、「わたしは現代の俳句を、無季有季をとわない、と、考えている」と書いている。
 さて句集『漂流』には鈴木六林男という人が序文を寄せている。それによってわたしは土方鐵さんが「花曜」という俳句結社に属していたこと、鈴木六林男さんがその「花曜」の主宰者であったこと、そして鈴木六林男さんという人は、土方鐵の初期の作句生活と晩年の句作活動への回帰のふたつの時期に立ち会ったひとであることを知ることができる。
 この鈴木六林男(本名次郎)さんは、土方さんのの死去に二ヶ月ほどさきだって二〇〇四年十二月十二日に八十五歳で死去された。西東三鬼門といわれ、また新興俳句最後の生き残りといわれた、無季俳句運動の重鎮であった。詳しくは知らないが、新興俳句運動は戦時中はげしい弾圧を受けた。いわゆる京大俳句事件もそのひとつである。鈴木さんはそのころ「京大俳句」に投句するなど、これらの動きにかかわっていたようだ。当然、土方さんが深い関心を寄せていた俳人石田波郷とも面識があったとしても不思議ではない。『漂流』序文のなかで鈴木さんはこうも言っている。「私は、私の内なる戦後処理が出来ずに戦場に残してきた死者と共に彷徨していた。」鈴木さんの俳句はそのように始まった。そのご社会派俳句と反戦の立場を最後までつらぬかれたようである。療養所文芸としての俳句を通じての鈴木六林男さんとの出会いが、土方さんにおける俳句の基本的性格を決めたといってもいいだろう。
(療養所文芸としての俳句)
 今ひとつの問題は「療養所文芸」としての土方さんの俳句である。小説集『妣の闇』に付された竹内泰宏さんの解説文に記されている略歴によれば、「一九二七年(昭二)京都に生まれた土方鐵は、小学校卒業後鉄工場に就職した。しかし一九四二年に肺結核で入院し、肋骨九本を切除して十年間の療養生活をよぎなくされている。かれはこのあいだに文学に親しみ、病気回復後、一九五一年に部落解放同盟京都府連常任書記として部落解放運動にはいり……」とある。土方さんの『小説石田波郷』のなかで、彼は自分の病歴について、たぶん一九四七年に、京都府綴喜郡青谷村(現城陽市)の元傷痍軍人療養所だった国立京都療養所に入所し、京大結核研究所で肋膜外合成樹脂充填術という手術をうけたと記している。
 ところで、中村不二夫『戦後サークル詩の系譜』には「当時(五二年二月現在)全国で、二〇〇万超の患者の内一三万二千の人々が結核で公私の療養所に入院していたという。退所後、五年後の再発が二〇%、死亡が五〇%の状況であった」という記述がある。
 戦前から戦後にかけての、貧困、栄養不良などが生み出した社会現象ともいうべき結核の蔓延について、わたし自身の体験からも感慨をもって思い出さざるをえない。
 中村不二夫さんは「当時全国に約五十、結核関係の詩・文芸サークルがあったという」と述べているが、療養者の文学的関心が、その肉体条件からしても短歌、俳句、詩などの短詩型文学に集中していったことはいわば必然であったし、さらに当時の民主的文学運動の昂揚、その中に位置付けされる文学サークル運動のひろがりという状況を反映して、土方さんの文学的思想的関心が社会的前衛的性格の方向にすすんでいったのだと概括してもあやまりではあるまい。土方さんの俳句への出会いをわたしはそういう意味で理解したいと思う。
(土方さんの初期俳句)
 土方さんは、一九五四年にガリ版刷りの小句集を出している。かれが二十七歳のときだ。すでに社会復帰し、部落解放運動に身を投じた時期である。その作品は句集『漂流』のなかの「青の章」に抄録したと土方さんは言っている。わたしにかれの句を批評する資格はないが、好きな句と気になる句を何句か書き出してみる。

 雪晴れや死者の病衣が干されたり
 玉葱が一つ逝きたるベットの下
 手術前石炭こぼしつつ投げこむ
 乾いた唇なめる俄に死の不安
 金欲しやざらざらの舌に飴ころがし

 病苦と死の不安に立ち向かっていたころのものであろう。冷静な観察、客観的な描写のなかに、叫びだしたいほどの心情を沈めているのが読み取れて、わたしには好ましい。
 屋根裏に病めり秋風吹き抜くる
はすこし月並みの感がするし、
 空蝉を拾いて流浪果つるなし
 汝を濡らせし夜は蒼くして銀河濃し
などはすこし詩情が生のまま出すぎている気がする。
 そしてこのころから、土方さんは革命思想に吸引され、部落解放運動の若い旗手として働きはじめたのであった。

 靴屋が靴たたく咳をしてはたたく
 うぶげの髭ぼおぼおと少年印刷工
 夜の雨に濡れ立ち保つ汝との距離
 革命はいつ雪に濡れゆくオーバアの肩
 僕の肺スラム同族の古血吐く
 我ら部落民西日燃えくる路地縦横
 スラム貫く川が鈍痛赤い太陽
 眠るスラム地の底から貨車通過
 革命記念日スラムは冷えた湿地の上

 この最初の二句は、写実の視点からも秀句に挙げられるとわたしは思う。しかし土方さんが社会的視点と解放運動の視点のなかに自分の文学を置こうとするとき、現実の中の複雑な諸相と、作家自身の鬱屈した内面世界を描きだすには、俳句という表現形式では物足りないと感じ始めたのではないだろうか。挙げた作品群を見てそのように感じるのである。
(俳句から散文表現へ)
 一般的にいえば、文学芸術は微細なものへの関心を通じて世界を凝視する。世界とは、作者にとって緊張関係にある外部のものと、自分の内部にあるすべてである。俳句という表現形式はどちらかというと作者の内部の感性練磨にふさわしいという思いがする。いわば一点への凝縮と完結が求められ続けるのである。俳句作家としてはちがった言い分もあるだろうが、わたし自身詩の世界にいるものとしてそういう思いがする。
 一作だけでは完結しえないから、同テーマによる連作が試みられたり、小説形式の散文世界への創造活動の場の転換が試みられたりするのだろう。
 ふりかえってみると、土方鐵さんの文学は日本の現代文学のなかで、屹立した特異の地位を占めていた。
 その文学は、差別と貧困、病苦、そして解放運動のなかの実践のなかで獲得してきた思想的、方法論的立場によって重要な地歩を獲得してきた。彼のどのように小さなエッセイや論争文においても、憤怒と激情が冷静公平な論旨にかくされていたと思う。
 その小説群については他の人が語るだろうが、野間宏さんを師と仰ぎながら、社会的リアリズム、肉体的リアリズム、心理的リアリズムの結合という独自の方法論を築きあげてきたのだとわたしは思っている。
 土方鐵さんの文学は、俳句という形の制約を越えざるをえなかったのだ。
(俳句世界への回帰)
 句集『漂流』あとがきには、「一九八六年、俳句に復帰し、約十年に書きためたもので、この句集を編んだ」と記されている。
 さて、土方さんは一九七一年に右甲状腺腫瘍の摘出手術を受け、一九八一年には甲状腺全摘、副甲状腺全摘、声帯の神経一部摘出、右リンパ線摘出、気管切開という大手術を受けた。酸素タンクを曳いてあらわれ、傷んだ声帯を引き絞るようにして話す、土方さんの風姿がわたしたちに馴染みのものになった。
 土方さんが「革」という短編を発表したのは一九七七年、中篇「妣の闇」が書かれたのは一九八七年から一九九〇年にかけてである。
「妣の闇」は土方さんの入院手術というなかでの時の経過を追った記録と、死とたたかう土方さんの中に継起する幻覚、幻想が重ね合わされた特異な作風であるが、この作品からも、死にいたるほどの病いによる体力の消耗が、小説という表現形式から俳句への回帰をもたらしつつあることを、今にして感じとることができよう。
 一九九四年から九八年ころまで書き継がれて二〇〇一年に解放出版社から刊行された『小説 石田波郷』を、わたしは土方さんのライフワークにも位置するものと思っている。この場ではわたしはその内容にはふれないが、彼の俳句作品に関心を持つ人は、ぜひこれも愛読してほしい。
句集『漂流』には推定四百句あまりの作品が収録されている。それは制作年代順になっていない。なお未発表の作品収集もふくめて若い後継者や研究者の仕事にゆだねたいところだ。
 鈴木六林男さんの解説は丁寧で明晰、非常に参考になる。それに屋を重ねることは要らぬことだという思いがする。
わたしは、部落の解放とにんげんの解放にその生涯をささげた土方鐵さんへの追悼の気持ちをこめて、幾つかの句を紹介することで責めを果たしたいと思う。
最初はかれの身内や友人たちへの悼み歌というべきもの。

(母きみえ)遠雷やいまわの母の垂れ乳房
     母の忌の夜ふけひとりを甜瓜
(富士正晴)正晴の死や竹林に炎日透け
(上野英信)男いて花火散らせり地を穿ち
(米田富)囀りや君が棺と赤い旗
(野間宏)宏死す地を弾み打つ削岩機
(井上光晴)光晴逝く炭坑島に草猛り
(父新助)寒星や父に息絶ゆ刻きたり

 次は「旅遊」と名付けられた章から
 ガンジスに四肢ちぢめたる児の骸(インド)
 樹の下陰賎とよばるる靴繕し
 泥小屋の暗きに少女杼を走らす
 河へ落日インド大陸闇きたる
 褪色しなおかつ農民旗の紅(中国)
 北京四温笑まう阿Qとすれちがい
 砂漠灼けいずこにもなき己が影
 舟上に蛋民めし食う猫もいて

 「漂流T」から
 遠花火われかくし飼う魔性たち
 雪はなやか一揆の石碑かしぎおり
 秋の風鉄材積まれ生臭し
 黒い川面へ唾吐く弔旗立てしあと
 
 「カフカの城」から
 麻酔醒むカフカの城に行きつけず
 われは癌なりしか寒夜なお明けず
 妻やさし寒くてだるき双の腕
 病院の寒夜無音の阿鼻叫喚
 生きのびし胸に蝿きて翅つかう

「スラム」から
 屠夫戻る路地に縞なす血の夕焼
 驟雨きてスラムの屋根の合唱す
 組まれつつ鉄骨スラムと夕焼ける
 黒ぐろと牛伏すごとしスラムに月

「雑の章」から
 村ほろび羽もがれたる婆ひとり
 窓すべて闇はらみおり廃炭住  
 父の家鉄くさき水のみこぼす
 虚実皮膜コーヒー缶をけり歩く
 銹びいそぐ鉄材猫のうすき舌

「漂流U」から
 くらがりに起重機の黄寝に帰る
 濁世かな木蓮の白天をむき
 ダム涸れて地の骨のごときもの立てり
 組みあがりゆく鉄骨の敗戦日
 奈良坂は非人坂なり柿の花
 凩やわが片肺の吐きて吸う
 八月や獣の心もって生き
 大鴉迷彩服がどかどかくる

 きりがないので、このあたりで終わりにしたい。要は一人でも多くの人が、土方さんの生きざまを知り、その遺した文学に、永く親しんでほしいということである。
(さいごに)
 筆を擱こうとした今、『「新日本文学」の60年』という本が届いた。今年春、最終的に解散した新日本文学会の残務処理として出されたもので、五百余ページの大冊である。ここには、土方さんの「言葉の路地」という文章が載っている。昨年末、「新日本文学」誌の最終号に掲載されたものである。談話筆記となっているので、土方さんの体調がかなり悪くなってきたときのものであろう。こういう種類のものを絶筆とはいわないかも知れぬが、そういう種類の土方さんの言葉として記憶に止めつづけたい。
  「部落解放」二〇〇六・二(五六一号)




 二〇〇五年夏の中国           


 この夏、兵庫県教職員の日中友好教育文化交流団に顧問として随行し中国へ行って来た。私とし
ては十五回目か十六回目の訪中である。
中国側から提案してきたコースには、世界自然遺産として認定され脚光を浴びている四川省の九寨溝が含まれていた。この地域は標高三千bから四千bの高地であり、高山病への警戒が必要といわれている地域なのであった。
 だからこの旅行参加には家族知人の多くが難色をしめした。ホームドクターは携帯酸素ボンベの機内持ち込み許可をとるよう忠告してくれた。しかし中国国内線ではその許可が通用するかどうかは疑わしかった。現地で酸素ボンベを用意するので大丈夫という旅行社の言を信じることにした。
 そこまで今回の訪中にこだわったのは、私自身が今日の中国の国内事情について興味と関心があったからだ。
 中国各地で、大きな反日騒動が頻発していた。伝えられた映像を見る限りでは、組織だった反日行動というよりも、一部の者の煽動による暴発と考えられた。しかし中国の公式メデイアに勝る地下情報網の予想外の浸透と民衆の社会意識の変化は明らかな新しい事態であった。
 中国政府は、小泉氏の靖国神社参拝と教科書問題を繰り返し非難し、対日関係の緊張を維持しながら、民衆の暴走を抑えての、この夏の抗日戦争勝利六〇周年記念カンパニヤへの誘導を図っていると思われた。
 現地で、私たちを見る民衆の表情はどうなのか。政府関係が微調整をはかっている対日政策の変化はどういうところに現れてくるのか。今後の日中間の民間交流においても、なんらかの変化が生まれるのではないか。そういう思いが、今回の訪中団への参加を、私に希望させたのであった。

上海での交流
 八月十八日午後、上海浦東国際空港に着く。新しく建設された空港である。市内までは随分遠く、バスで一時間以上かかった。フランスから技術導入したという、高速モノレールが空港と市内を結んでいるが、何故かそれを利用することは一度もなかった。
 夜の歓迎宴は、呉申耀総工会副主席や夏玲英教育工会主席とともに、旧知の魯巧英、江晨清、趙順章などの懐かしい顔も見え、和やかなひと時となった。
(かつての中国教育工会は種々分野を統合して「中国教科文衛工会」と名を代え,再編されている。これは教育科学文化衛生体育の各分野を統合したことによるもので、この呼称は慣れないせいもあってすこしややこしい。だから、この文では教育工会として表記させてもらうことがある。)
八月十九日、おなじみの上海教育会堂で二百人規模の「中日教育与発展交流研討会」がひらかれた。これは従来、双方それぞれがすすめてきた教育改革について、相互理解を深めることをめざしてきたシンポジュ―ムの継続である。中国側の報告は、中高教育において国際理解・国際知識の分野を重視し充実させつつあるということに力点があったと思う。日本側は、バブル崩壊後の、不登校の増大、不就学・不就労のいわゆる若年ニート層の増大など、高度成長に伴ってきた教育の発展の蔭の部分について報告した。目覚しい経済成長の道を突進している上海社会にとっても、既に現実化しつつあることとして深い印象を与えたようである。
午後は上海交通大學を訪問したが、ビデオを使用しての概要説明に時間がとられ、交流というほどのものにはならなかった。
夕刻、旧跡「豫園」への入園は見送ったが、周辺の街区はおどろくべき変貌をとげ、不夜城ともいうべき歓楽街となっているのは驚きだった。上海は郊外に新街区をどんどん建設しマンモス化している。一方、旧市街の取り壊しと高層ビル化がなお進行中である。何百万という農村から流亡してきている、底辺の民衆の姿を私たちが見ることは少ないが、繁栄はおそるべき貧富の差を増殖していて、火種がありさえすれば、先日の反日騒動のような暴発が起こりうる条件はこの社会にはいつでも存在する。

成都・九寨溝へ
八月二十日、飛行時間二時間余で四川省成都双流空港に午前十一時頃着。市内のレストランで昼食のあと、「パンダ生態園」と「武侯祠」を駆け足で回る。
出発前に杜甫の作品や経歴にあらためて目を通していたが、時間の都合で、「杜甫草堂」の予定はカットされた。私としてはここは一九八八年に参観している。
武侯祠は、三国志の蜀王劉備玄徳の陵墓に併せて、諸葛孔明を祀っているところ。前回に来た時に、ここで岳飛筆という「出師表」の模本を手に入れたのであった。
パンダ生態園、構内では雉子も遊んでいる。その園内道路を、十人ほど乗れる電動式(?)開架乗合自動車でめぐり、幼獣区、成獣区、レッサーパンダ区などに仕分けされた区画に徒歩で向うのである。土地の人々にもパンダはやはり珍しいのか、大勢の入園者があった。入園料は一人六十元(日本円で八百円位か)、あまり安くはない。高齢者は半額と表示されていた。
 ついでに書いておくと、翌日訪れた「黄龍景区」の入山料は二百元(二千八百円)、「九寨溝景区」が二百二十元(三千円余)、九寨溝では構内のバス利用料が別途八十元だから、今までの中国では考えられないべらぼうな値段だ。しかし結構、家族連れやバスなどで乗りつけた団体客でにぎわっている。富裕な中国人の厚い層が生み出されている中国社会の1面を垣間見た思いがする。
 八月二十一日朝五時ごろホテルを出る。朝食はバスの中で、菓子パン、ゆで卵、林檎などの入った弁当にコーラ。成都空港から約四十分で、標高三千四百bの地点にある九寨溝空港に着く。
空気が薄いせいか、頭が重く、脚に力が入らない。紅軍遠征地跡の記念碑園を経て「黄龍」にむかう。
 途中、標高四千三百bの峠をバスは越えていく。チベット族の部落を見る。痩せた麦畑を見る。牛に似たヤクを放牧している山腹の草原を見る。チベット族の店で、老婆から羊の毛(ヤクの毛?)で編んだ手製のショウルを買う。二十五元。
 万年雪におおわれた岷山山脈の主峰、雪宝頂の麓に位置する標高三千b以上、全長三、六キロの黄龍渓谷。輿のようなものを二人でかつぐ駕籠屋がいる。私は歩いて登り途中で引き返した。石灰質の湖沼群が龍のように連なり五彩に輝く水流が流れ下る光景の一端を見て満足した。
 八月二十二日は終日九寨溝景区内で過ごす。この地の気温は低く、夜間は零度ちかくまで下がり、昼間で十五度前後である。厚手の肌着を着込み、冬ズボンに晴雨兼用のコート、ズック靴、腰にカメラなどを入れた鞄をくくりつけ、片手にビール瓶ほどの大きさの酸素ボンベ缶を握り締め、といういでたちである。
上流のポイントでは、鱒科のような魚群が見えたが現地人は魚を喰わないとのこと。死者を弔うには風葬、火葬、土葬、水葬などの五種があって、幼少児の死者は水葬に付するからだという。
 約三時間断続的に歩き、構内唯一のレストハウスで昼食、午後はまた別の渓流を上流から下流に、バス併走で歩き下る。標高差千bのコースを、一日二往復したことになる。それでも、この景観のおそらく三分の一も見ていないだろう。登山道のようなものもあって、徒歩で登っていく人影もいくつか見えたが、あの人たちは夜どこでどのように休むのだろうか。
 最後に三百年前に建てられたというチベット佛教の寺院に寄る。観光客むけの売店が市をなして賑やかだった。
 夜は民族歌舞団の公演に招待されたが、私は中途で退席、宿にもどった。家宛に葉書を投函(これは九月に入ってから配達された)。
気圧のせいか、腕時計のガラス盤と針が飛んだ。当座の用のためにホテルの売店で、中国製の腕時計を求めた。電池を入れ替え、起動させるまでにひと悶着あったが、これは帰国後の今も正常に動いている。価格三百元。

北京へ
八月二十三日朝六時ホテル発。朝食はバス内で弁当と牛乳。九寨溝空港八時四十分発。成都空港で乗換え、北京空港着十四時三十分。パトカー先導で市内へむかう。北京滞在中はずっとパトカーが同行した。警護のためというよりも、交通渋滞のなかでの優先通行確保がその理由であったろう。
北京の宿舎は総工会が経営する「中国職工の家」、私の部屋は十九階八号室、部屋にパソコンなども設置してあった。新しいホテルである。
到着後、建物内の第三会議室で全国総工会副主席、教科文衛体工会主席なども出席しての「日中工会和平教育懇談会」があり、引き続いて天津市総工会、教育工会などによる招待夕食会がひらかれた。前記の懇談会は今回の訪中の主要な予定行事の一つであったが、時間がずれ込んでいたため、実質的に論議を発展させるに至らなかった。
翌二十四日、団の本隊は故宮博物館と万里の長城見学に出かけた。団幹部と私たちは、午前中を西城区にある「郭沫若記念館」で過ごした。毛沢東に信頼され、人民中国の政府首脳としても参画した、歴史家、作家、書家として名高い郭沫若が晩年をすごした住居が、ありふれた旧い四合院形式のまま保存されていた。
展示されている資料のなかで、モルガンの『古代社会』やエンゲルスの『空想から科学へ』などの蔵書が目にとまった。若かりし郭沫若が、中国古代史や社会発展史の研究に多くの業績を残し、話題と論争の石を投じることになった、そのルーツであろう。
かつて、一円一億関学教授から、宝塚の自宅で、郭沫若から直接贈られたという大幅の書軸を見せてもらったことがあるのを思い出した。
午後、私たちは中南海に入って、中国政府の要人(唐家セン氏。肩書きは政府常務委員か)の接見を受けた。彼は日本語も判る人だから、通訳の不十分な点を繰り返し補強しながら、慎重に言葉を選んで、中国政府の現在の対日政策をくわしく語った。後から思えば、この接見が、今回の私たちの訪中に際しての、中国側が設定した一番大きな行事であったのかも知れない。中南海は北京市中央部に位置する、大きな湖や樹林を包含する広大な地域である。かつては毛沢東や中国共産党の領袖たちも居住した、党と政府の中枢拠点として、厳重に武装兵に護られている地域である。
その夜、人民大会堂の西蔵の間で開かれた二百人規模の大宴会は和やかな交歓の場となった。かつてこの人民大会堂のなかで、但馬の傘踊りや丹波のデカンショ踊りが披露されたこともあった。今年の日本側の出し物の締めくくりは、全員合唱による「しあわせ はこべるように」、震災後十年かわらず子どもたちによって歌い継がれている歌だ。この歌は何時どこで聞いても鼻にツンとくるものがある。

終着は芦溝橋
八月二十五日、午後北京空港から私たちは帰国する。その前に芦溝橋に立ち寄るという日程である。
朝出立前に宿舎の売店で、『八大山人書法集』上下二巻を三八〇元で買う。A四版、ハードカバーで総四三六ページ、持ち重りのする本だ。
パトカー先導でバスを連ねて芦溝橋に向う。抗日戦争記念館前では、週日だというのに入館を待って数千人の人の列が出来ていた。終日ほぼ二万人の入場が予想されるという。
かつては芦溝橋で始まった戦争の地域的展示が中心だったが、今は抗日戦争全期を俯瞰するような展示に重点を移している。それと、抗日戦争における中国共産党と解放軍の果たした役割を強調するものになっていることは、今年の抗日戦争勝利六十周年キャンペーンの目的が、反日感情の煽動よりも、国内民衆のなかでの、現政府への強固な支持をあらためて再組織しようとする意図を示すものではないだろうか。
それとともに、抗日戦争期の記録資料について、誇大な数字の訂正など、不確かな記録を精査する作業がすすめられ、展示資料も更新されている。これはおそらく全国的な課題となっている。歴史的事実についての科学的検証をあらためて進めようとする中国側のあたらしい姿勢を示すことだと思う。
予知していたことだが、中央テレビなど二三のテレビカメラが私たちとのインタビューのために待ち構えていた。芦溝橋の河畔でも退役軍人たち数人が、私たちとのインタビューのために待機していた。
それらは九月三日に放映されるということだったが、どのように編集されたかはわからない。以前は自由通行できた橋の周辺は通り抜けできない。破損した石の欄干や石の獅子像はところどころコンクリートで補修されていた。歴史的遺物保存のために余儀ないことかもしれぬが、感覚的には受け入れにくいものが残った。
 私たち「兵庫県教職員日中友好教育文化交流団」という百人を超える大型訪中団がこの時期にやってくるということは、中国側にとっては格好の宣伝素材がやってくるということでもあったのであろう。 芦溝橋もその上を散策する日本人や中国人も、晩夏の陽射しにただ黙って灼かれていた、二〇〇五年八月であった。



 『蒼氓』の舞台に紡ぐ神戸文学館の夢


         
<歴史のなかに佇む旧移民収容所>
 神戸芸文三十周年記念誌「二十世紀神戸物語」はなかなか面白く役に立つ本である。
 しかし今、この文を書こうとして、ページをはぐってみても適当な記述がない。探そうとしたのは、林五和夫さんが神戸南京虫攻防戦」で触れている「山手にある旧移民収容所」、黒崎由紀子さんが「移民(少女)」で追想している「移民斡旋所」のことである。
 その当初の正式名称は国立神戸移民収容所、ブラジル移民を奨励する国策によって、一九二八年三月に開設された。戦時中は閉鎖され、戦後、神戸移住斡旋所として再開された。その後さらに「神戸移住センター」と名前を代え、一九七一年に最終的に閉鎖された。
第一回芥川賞受賞作となった石川達三の小説『蒼氓』の舞台となったことで知られるようになるが、神戸市民にとってはそれほどなじみのある建物とは言えない。
 貧しい農民とその家族たちが、ここに滞在し、十日間ほどの準備期間を健康診断、研修などで過ごし、神戸港から南米大陸にむけて海を渡っていった。その数は二十五万人に達した。それは棄民ともいうべき日本の現代史の一齣である。
 私は、ここ十五年ほどの間に、ブラジルの地に四回ほど旅をする機会があり、向こうの移民資料館や、日系人老人ホームなども訪れ、活躍している日系一世二世などとも会ったりしたが、移民たちは初期開拓時代において筆舌に尽くしがたい苦難や挫折をなめてきている。
 その後、この建物は「神戸医師会准看護婦学校」に使用されたりしたが、現在は「神戸移民資料室」や、「関西ブラジル人コミュニテイ」に一部使用されているほかは、使用可能な多くの部分は若手の芸術活動体「C・A・P」(芸術と計画会議)が使用管理している。
関係者以外は訪れる人も少なく、旧来の外観や船室に模した部屋の構造、設備を残したまま、老朽化して佇んでいる。
解体・改築、移民資料センターの設立などが議論されるいわば貴重な歴史的遺産である。
<故小林武雄氏蔵書の整理作業>
 さて、私たちは毎週月曜日の午後、この旧移民収容所に通っている。二〇〇三年六月からだからすでに一年半になる。
私たちとは、神戸芸文の文学館に関する小委員会から委嘱された、和田英子さんと橘川真一さんを中心にする五名である。家庭事情や年齢など条件が許される人が集まっている。つまり、生活にはまずまず不安がなく、仕事の内容に理解と能力を持ち、意欲と時間を持っている人ということになる。もちろん無報酬である。高齢者ばかりなので、先の先まで考えれば、今後の作業の継続について不安がなくもないが、いまのところ皆が楽しんでやっている。
部屋は四階の西端に二室使用している。一部屋には整理済みと未整理の書籍が、ダンボールの箱に詰められて積み上げられている。あと一室が分類、カード作製、PCによる記録などをする作業室である。芸文の事務局が色々気を使ってくれてはいるが、便所が二階の東端であること、4階まで徒歩で上がり降りしなければならないことなど、快適とはいいがたい。
私たちは毎週月曜日の午後、その四階の作業室で働いている。
<近代文学館を夢見て>
神戸に近代文学館をつくりたい、という声が出てから随分になる。神戸芸文で、伊勢田史郎さんが議長をしている頃から、そのための専門委員会が稼動していた。美術館建設に関しても検討作業が進んでいた。しかし、事情が変ったのは、やはり阪神淡路大震災の影響である。ばら色の都市計画やハコもの重視が再検討を余儀なくされ、加えて神戸市の財政事情の逼迫が有無をいわさぬ悪条件を作り出した。
平成十一年には「神戸文学館調査報告書」がまとめれれ、市からの委託事業としての報告を提出した。平成十三年には更に神戸芸文から「神戸の文化への提言」が神戸市に提出された。
その中では、震災の影響もあって懸念される貴重な文学資料の散逸を防ぎ、収集整理保存が急務であるとし、神戸市の協力をお願いするとともに、神戸芸文もその資料の収集に着手すると述べている。
<小林武雄氏蔵書の神戸市への寄贈>
小林武雄さんは、二〇〇二年五月六日に肺炎のため逝去された。満九十歳だった。若年のときから文学運動に加わり、戦中は神戸詩人事件で投獄されもした。戦後は神戸市の福祉事業にかかわる傍ら、神戸市市民芸術文化推進会議(現・神戸芸術文化会議)や兵庫県文化協会(現・兵庫県芸術文化協会)の創設と発展に貢献した。芸術文化団体「半どんの会」代表として、県下の文化人・知識人の幅ひろい交流をつくり上げた。
そのような小林さんの経歴が残された蔵書にも当然反映されている。
小林さんの蔵書は、二〇〇三年三月(残りは二〇〇四年一月に)に、遺族から神戸市(神戸芸文)に寄贈された。ダンボール箱で約三百箱に達する膨大なものである。
<いままでの小林蔵書の整理作業>
私たちはまず文学書から着手することにした。類別ジャンル別項目表をつくり、それにしたがって一冊づつカードに記入し、パソコンに記録していくという作業である。
この一月現在で、一応整理記録が終った書籍の内訳を見てみよう。
個人詩集(県内)1173冊
個人詩集(県外)489冊
訳詩集・アンソロジー97冊
詩論・エッセイ集233冊
個人歌集445冊
短歌のアンソロジー・エッセイ218冊
個人句集(俳句・川柳・冠句)349冊
俳句関係アンソロジー134冊
俳句関係エッセイ集83冊
小説・エッセイ506冊
児童文学関係103冊
伝記類31冊
各種貴重本分類89冊
総計で四千冊弱の整理が一応終ったということになる。この大部分が兵庫県下における文学の営みを集積したものであることにご注意ねがいたい。
文学関係でも、なお補遺として新たに見つけ出されるもの、総記類目に入る全集、選集、講座や辞典・年鑑類がまだ手をつけられていない。
小林さんの生前の位置や交友を反映して、
その蔵書の中には、膨大な美術書(市販のものだけでなく個人の画集や書作品集、展覧会の図録等)などがある。宗教・思想・哲学関係のものなども意外に多い。そして生涯関与していた福祉関係の資料や、行政関係の資料、郷土史・社史その他の全県に渉る資料もまだ手つかずだ。貴重な原資料となる雑誌類の分類整理にもできるだけ早く着手したい、という思いはまだしばらく果たせそうにもない。
<私の夢>
本格的な文学館への期待は期待として、最低限、書庫と作業室と閲覧室を備えた、文学センターのようなものが、ひと時も早く実現できたら、どんなにうれしいことだろう。
この小林文庫を、そのような、誰でも閲覧できるようなところで公開することができたら、補充資料や新刊資料は自然と集まってくるだろう。私や貴方の蔵書もいさんで駆けつけることだろう。
生あるうちに、この夢を形あるものにしたいものである。

□ 貝原六一さんと「輪」
 
「輪」の創刊号が出たのは、一九五五年五月である。同人として表紙裏に記載されているのは、記載順に伊勢田史郎・貝原六一・中村隆・山本博繁の四人。編集は中村隆、発行主体の「輪の会」の所在も中村方になっている。
当時、一条寺鉄男をペンネームにしていた私と、灰谷健次郎、岡見裕輔、西田恵美子の四人が同人に加わったのが「輪」三号からで一九五七年のこと、同じ年に四号から、海尻巌、各務豊和、なかけんじの三人が加わっている。
 五十年を経た今日、創刊同人で生き残っているのは、二〇〇四年七月二十九日に貝原六一さんが亡くなったので、伊勢田史郎さんただ独りとなってしまった。六さんの死は、まさに「輪」の終焉期を暗示するようで、伊勢田さんもつらかろうし、私にも切ない。
 ところで、六さんが病に倒れてから、私は彼と会っていない。厳密にいえば一九八六年四月に、中村、伊勢田の両君とともに、リハビリ段階に入った六さんを病院に見舞ったのが、その顔を見た最後である。
当時、私は「輪」誌の編集発行の責任を負っていたのだが、一号だけ表紙絵空白の号を出した記憶がある。それまで休むことなく表紙を飾っていた六さんの絵が、「輪」からその空白号から姿を消したのである。六さんが自宅療養に移ってからも、彼の精神状態を危惧して、面接も電話も差し控えるように申し合わされていた。それは貝原家の希望であった。そういうことで、「輪」の同人名簿には貝原六一は記載されてはいたが、新しい同人にはほとんど未知の人であろう。
 といっても、私は貝原六一さんが昨夏に亡くなっていたことを年末まで知らなかった。それは貝原佐智子さんの年末の挨拶はがきで知ることになった。おそらく伊勢田さんも、行動美術のかつての僚友や後輩たちも、同じであったろう。そこで、中右瑛さんが中心となって緊急の連絡協議があり、昨年末の十二月十七日、貝原六一先生を偲ぶ会がひらかれたのであった。
 伊勢田さんが文学関係の旧友を代表して、いい追悼の詩を読んだ。会場内で久しぶりに見る懐かしい、松本宏、南和好、田中徳喜などの皆さんの顔が、六さんによってつながれたエニシを思い出させた。
 私の第一詩集『ひびきのない合図』の表紙を飾ったのは松本宏さんの銅版画で、私の希望が六さんの口利きによって実現したのである。ちなみに、私の第二詩集『日常的風景』は輪の詩集シリーズとして出されたもので、装画は貝原六一さん、原画は私の手元にはない。
 さて、私は「輪」の後発組だから、輪の創刊にいたるまでの、中村隆さんや伊勢田史郎さんと貝原六一さんとのそれまでのつながりは熟知しない。また、当時六さんの初期作品について、伊勢田さんが「どちらかというと粘液質で、ぶきっちよな、しかも褐色の憤怒にみちた不調和な散文的絵画」、「陰鬱でしかもはげしい人間の状況に対する個性的な怒り」と書いている、その時期については、熟知していない。
 しかし、「輪」を通じて、それ以後の、六さんの絵の静的な、洗練された心象への沈潜の深さを、私も愛してきた者のひとりだったのだと思う。
 彼からみれば、年少の青臭く生意気なだけの私など、芸術論議をかわす対象ではなかっただろうと思う。だが、六さんが折りに触れて云っていた「アルチザンであること」の強調が、なぜか私の頭から離れない。アルチザンであることの強調が、ともすれば純粋芸術派の技巧的技能的視野の限界であるかごとくに受け取りがちであった私への叱咤であったとも言えるだろう。
 同時に、単純化した形象に塗りこめ、閉じ込めようとしていた、六さん自身の祈りの表白であったのかもしれない。
 これを書いている机の横の壁に、六さんの絵が一枚架かっている。
 一九七〇年頃、元町商店街の貝原佐智子さんが経営していたギャラリーで購入した作品である。ゼロ号ほどの小品で、当時の私の経済状態では、作品への好みで選ぶことは出来なかった。
 ワインカラーを基調とした教会の尖塔が描かれている。尖塔の形と空らしき空間を残して、丁寧に白で塗りつぶされている。絵の具に隠されて見えない部分に何があるのかは想像しがたい。同じモチーフの大きな作品を観た記憶があるので、私の所蔵しているのは大作のエスキースというべきものかもしれない。しかし何故か心を引くものがあったのだと思う。そして三十年経った今でも見飽きることはない。
 私は六さんのドンキホーテをモチーフにした作品系列が好きだが、色調などは我が家にあるものと共通しているものがある様な気がする。そして彼の作品にはどれにも中空に太陽のようなものが描かれている。すくなくとも、六さんの絵には狂乱とか憎悪などの匂いは感じられない。彼が作品のなかに塗りこめつづけてきたものが何への祈りであったかを推測する資格は私にはないが、偉大なアルチザンであった貝原六一さんの、中断された最後の二十年間で達成しえなかったものをあらためて口惜しいと思うのである。(「輪」98号)





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